今もって純情素朴なユエン ■ 

古川町は、H16年2月1日に、神岡町等と合併し、飛騨市になってます。

  

古川町の街中を流れる側溝と雪景色
  生まれ故郷

私の誕生日はS26年1月15日、国民の祝日(残念ながら、現在は祝日ではありません)です。H19年で56歳の中年オヤジです。 生まれ育った岐阜県北部の飛騨古川町(飛騨高山より10Kmほど北側)では、私の誕生日は「三寺参り」と言って、大きな浄土真宗系の寺を三個所お参りする行事があります。何時間も燃え続ける巨大な和ろうそくに、妖しく光る本殿は、それなりの畏怖心を子供心に焼き付けました。(宗教心に篤いということでは決してありません、念の為)
 また、この日は私達夫婦の二十ん年前の結婚式・披露宴の執り行われた日でもあります。朝から夜の遅くまで、延々と続く、長い長い儀式+披露宴でして、飲む酒の量も半端ではなく、完璧に出来上がってしまい最後のスピーチもシドロモドロだったことを、意識の片隅で記憶しています。
    (普通は親が挨拶するんでは>>親父殿)
 とにかく披露宴では、芸者さんがお囃子・踊りをするかと思うと、近所のおばさんは剣舞を舞うし、クラスメイトはとんでもない余興をするわetc.で一大宴会が繰り広げられました。外ではシンシンと雪が降り続いていて、夜遅くに帰る頃は、車が出せなくて大騒動になりました。そんな飛騨古川が私の故郷です。    
古川祭りでの屋台
(高山祭りの屋台と同じモノです)
 
 この小さな城下町に高校卒業まで居まして、刺激も無いし、変化も無い。求めようにもテダテが無い、周りも皆んな同じ条件。切磋琢磨という言葉は、聞いたことはあっても、実践するということとは丸っきりの別物。
他人(ひと)を押しのけてまで、ということは悪徳の至りである....
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 かくして純情・素朴のカタマリという人間が出来上がりました。反面、田舎育ちで何事にも受動的という性格にも仕上がりました。この性格は今にいたるまで、かなり尾を引いていまして、苦労しています。中学では柔道部に席を置きました。ただ、先輩が悪さをして廃部になってしまったので、実質的な活動は極めて少なく、当然白帯のままでした。
   (何と、末娘は中学で柔道部に所属してました)
 高校では山岳部に入りました。動機は顧問の先生が変わった方で、その生きザマに惚れたこと、卒業したOBがむちゃくちゃをしたため、二年生の先輩が居なかったので、イビられることはないだろうと考えたこと、高校山岳連盟の方針で冬山は禁止になって、楽なクラブ活動が出来るだろうetc.という不純なモノです。これらの不純な動機は全て思惑通りで、楽しい2年9ヶ月間でした。そう、三年生の終わりの3ヶ月位しか受験勉強はしませんでした。
   (何と、一番上の娘は高校で山岳部に所属してました)
ところで、月並な自己紹介をお望みの方に、(知りたくない方はパスしてネ)
■平凡ということは偉大なことか
折角の(えっ、何が)機会ですので、私の故郷・飛騨古川町をもっとご紹介したいと思います。 
■ 「さくら」の舞台、飛騨古川

■ 城下町・飛騨古川
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