城下町・飛騨古川 ■
 

 生まれ育った岐阜県北部の飛騨古川町(飛騨高山より10Kmほど北側)は、NHKの朝の連続ドラマ「さくら」(’02年1月〜9月放映)で一躍有名(?)になりましたが歴史有る城下町です。現在、飛騨といえば、高山市が中心ですが、戦国時代前の国司が地方行政をしていた頃は、古川が飛騨の中心でした。当時は、公家の姉小路家が、飛騨を治めておりましたが、戦国時代になると、大きく変わってきます。歴史小説をお好きな方は、金森 長近 という武将の名前をよくご存知だと思います。元々は、織田 信長 に仕え、その後 豊臣 秀吉 と徳川 家康 に仕えております。うまく世渡りした武将だと思います。彼が、秀吉から飛騨の平定の功により、飛騨の国を貰い、狭い古川盆地から、より広い高山に居城(高山城)を築きました。そして息子(養子の可重)に、古川の地に、増島城を築かせ、町を大きく発展させようとしました。昔の武将は、文武に秀でる人が多く、彼は茶道に大変造詣が深く(可重の子供は宗和、そうです宗和流の宗祖です)、他の大名と異なり、京都の町並みを真似た町作りを行います。当然、高山だけでなく、古川も碁盤目状の町割にしました。ところが、家康の時代になると、一国一城令の政策で、古川の増島城は破却されてしまいました。でも、城下町の形態は、連綿と今日まで続いております。現在残っている増島城の遺構は、小さな堀の一部と石垣位です。でも私が小さな頃は、大きな堀跡が残っていま した。当時の堀跡は、畑でしたが、この巨大な堀を埋め立て、古川小学校の裏庭にしました。

増島城址(現在は増島神社) 

戦国期は、一向一揆が各地で勃発しましたが、特に北陸では一向宗が巨大な勢力を持ち、その勢力は近辺の国にも広がっていきます。で、飛騨もその影響力下になり、一向宗(浄土真宗)の檀家が多いです。残念ながら、私の家の寺は、飛騨では少数派の曹洞宗の林昌寺です。この寺の山門が、この時破却した城門だと、云われてます。小さな寺(小さな寺が多い東京では、この規模の寺は普通ですネ)ですが、金森氏の墓や遺物が今も残ってます。さて町は碁盤目になっており、迷うようなことはありません。町の中心部は、一之町、ニ之町、三之町と整然と区割りされてます。私の実家は三之町です。城の近くは、殿町と呼ばれてます。昔は、馬場と呼ばれてた所もあります。そうなんです、城下町然としているのです。また、当時の施政方針なのでしょうか、町の中心部には大きな浄土真宗の寺が三っつあります。これらの寺は、東京にもって来れば、びっくりする位大きいです。この3寺を、1月15日に参るのを、「三寺参り」と言います。「さくら」でも放映されました。

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