■  東和泉城  ■
■期日 H23年2月26日(土)
        【千葉県】成田市・東和泉城・幡谷城・荒海城・長沼城・押畑城
■ルート  戸塚自宅〜横新・首都高・湾岸・東関東〜大栄IC〜R51他
         〜成田IC〜東関東・首都高・横新〜自宅
■コメント
 イヨイヨいけないHYD@還暦ライダーである。何がかってかというと、右肩がメチャ痛いのである。同じ姿勢でジィーッとしていると、肩が痛くなってガマン出来なくなる。つぅー訳で、1ヶ月以上も鉄馬に跨っていなかった。でも、この反動で乗り廻したい気持ちの方がツイに勝って、ガマンして出掛けることにした。攻城先は途中で痛くなっても、何とか帰館出来そうな下総に決定。で、イツモのように暗い内に起き出し、暗い内に出っ発です。横浜・東京・千葉の大都市を3箇所も縦断するので、お手軽に高速を利用します。横浜新道から首都高神奈川に入り、ベイ・ブリッジを渡ります。今日は風が強くてスンゲェー怖い。ビューンと吹かれると簡単に1m位横にズレてしまう。このため、しっかりとニー・グリップをしてトロトロと走ります。湾岸道まで来ると風の影響は少ない。ここからはソレナリの速度で宮城野ジャンクションから東関東道へ。成田を過ぎ大栄インターで降ります。R51を少し走り、途中から北側に入り県道63号線(大室街道)を成田方向に進みます。荒海川に架かる東和泉橋の上から、西を見ると100m先の小丘がソレらしい雰囲気である。近づくと県道脇に東和泉城入口の標識が立っている。う〜ん有り難てぇ、難なく攻城できそう。県道脇に鉄馬を停め、標識に従って舌状台地上へ登って行くと、星神社が有り、そばに城址の案内板が立っている。フムフム読んでからウロウロ開始。幾つかの郭と横堀・土橋・土塁跡がシッカリ残っており、小規模な城ではあるが楽しめる。雑木も切り払われており、見晴らしもナカナカである。
↑ 東和泉城、主郭址 ↑ 東和泉城、主郭の土塁址
↑ 東和泉城、副郭の土橋址 ↑ 東和泉城、副郭からの眺め
↑ 県道入口の標識と城址遠望 ↑ 星神社の案内板
 次いで荒海城を攻めるべく、「土室」交差点まで戻り、ここから北方向の県道?を進みます。500mほど進むとスカイウェイカントリーゴルフ場で、さらに300m進むと、道路脇に小さな案内標識が立っている。ゆわKm以上は出していた筈だが、還暦を過ぎた動体視力で、何かしら「●●城跡」と読めた気がした。急ブレーキを掛けて戻って見ると、香取神社300m・幡谷城500mの標識ではないか。今回の攻城では、幡谷城の場所がイマイチ分からず、遺構も少なそうなので見送った城である。香取神社脇を過ぎて進むと、舌状台地の麓部の道路脇に幡谷城の木碑が立っている。う〜ん、ラッキィー。ここから、尾根筋の道を北側に進むと、広い主郭跡である。耕地化されて遺構は無さそうだが、腰郭や堀切跡らしき地形が残っている。

35°50′31.2″−140°20′53.5″、比高は計測せず。
↑ 幡谷城、主郭跡 ↑ 幡谷城、主郭下の腰郭跡
← 幡谷城、麓部の木碑
  先ほどの道に戻り、更に進んで久住駅を過ぎて水掛街道へ。ここから南下して荒海地区に入ります。荒海川に架かる地蔵橋の北西100mの舌状台地上が荒海城です。麓部に民家が在り、ここで農作業をされている老人に、イロイロ話を伺います。孟宗竹が繁茂し手入れがされていないから大変である、と言われたが登る許可を貰って台地上へ。竹林はブッシュが生えないので、ウロウロするには好都合だと思ったのだが、手入れがされていないため、竹が幾重にも倒れて侵攻を塞いでしまっている。何とかウロウロしたが、幾つかの郭と虎口・堀切・土塁跡が確認できた。
↑ 荒海城、主郭跡 ↑ 荒海城、主郭脇の堀切跡
↑ 荒海城、副郭よりの眺め ↑ 荒海城、遠望
  次いでR408で長沼地区に入ります。地区にある長寿院の寺の先に小丘がある。この台地上が長沼城である。麓部に福沢諭吉とこの長沼地区との経緯が書かれており、これに関する石碑もある。階段を登って行くと稲荷神社があり、神社の上が主郭である。櫓台跡のような土壇があり、四囲には土塁が少し残っている。腰郭も残っているが、これ以上の遺構はなさそう。
↑ 長沼城、主郭跡 ↑ 長沼城、主郭の土塁跡
↑ 長沼城、主郭跡 ↑ 十日川橋よりの長沼城遠望
  今度はR408で成田市街に向かい押畑地区に。国道脇の押畑郵便局の南東の台地全体が押畑城である。国道で城域の一部が泣き分かれになっており、城の規模はメチャ大きい。台地上に登ると、新福寺があり、押畑公民館もあるという具合で、地区全体が城域のような観である。耕地化・宅地化で遺構の多くは消失しているようである。国道寄りの郭跡に堀跡らしき地形がある。パチリとデジ写真を撮ったが、地元の方の話では戦時中に作ったものらしい。う〜ん、よく分からん。北側の墓地辺りが主郭かと思ったが地元の方(この方は林さんといい、幡谷城主の筆頭家老格のご子孫)の話では、北東部の雑木の中らしい。但し、ブッシュがすごくて入れなかった。台地下には幡谷氏のご子孫が住んでおられ、そこへの谷道が虎口だったという話であった。2箇所の墓地は、北端が城主と筆頭家老のグルーで、南端の墓地は違う家老グループらしい。それぞれが城域を分担して守備していたらしい。
↑ 押畑城、主郭部 ↑ 押畑城、主郭部の虎口跡
↑ 押畑城、城域よりの眺め ↑ 押畑城、主郭部
「スワッ、堀跡か」と間違えた地形 
   押畑地区のスグ先は成田山新勝寺である。街の中をウロウロしたくなかったし、肩が痛くならない内に...という訳で、まだ12時前であるが、帰館するコトにした。途中でラーメンチェーン店で昼食を食べ、成田インターから東関東道に。往復とも同じ道で味気もないが、まぁ右肩が痛くならない内にトットと帰ろう。早朝と違ってベイブリッジも快適に渡って、14時半にはご帰館です。不思議なコトに、右肩は全く痛まなかった。治ったのだろうかしらん。うんにゃぁ、そんなことだば無いなぁ。暖かくなる迄は無理しないでおこう。本日、280Kmと距離は少なく殆ど高速利用。早く肩を直して、もっと楽しみたいナァ。
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