■  光明城  ■
■期日 H21年3月21日(土) 【静岡県】磐田市・長者屋敷、
      浜松市(旧天竜市)・光明城・秋葉城・蜷原砦・毘沙門堂砦・和田ヶ島砦、
       森町・片瀬城
■ルート  戸塚自宅〜P22〜厚木IC〜東名〜富士IC(ETCカード交換)〜東名
        〜袋井IC〜R1〜磐田C〜P44他〜二俣T〜P40他〜袋井C〜R1
         〜富士川SA〜東名〜厚木IC〜P22〜自宅
■コメント
  3月も中旬を過ぎ、ズイブンと暖かくなってきた。でも、{絶好の野駆の季節+セッカクの3連休}なんだが、どうやら真ん中の土曜だけが降水確率が10%と低くて、前後は50%以上という、イヤなご託宣である。しょうがねぇナァ、そんじゃぁ土曜だけ野駆に出掛けることにしようカァ。で、肝心の何処へか、というと遠江を攻めるツモリ。遠江・駿河・伊豆の静岡県の諸城は、野駆にピッタシな距離、冬季でも凍結の心配が少ない、等などで攻めやすくて、既に190城ほどを攻城済み。モウジキ
200城を超えそうである。といっても、メボシイ城も少なくなり、残りの10城がナカナカに難しそう。で、今回は天竜川沿いの山城と二俣城の付城を中心に攻めたい。長引いていた風邪も、どうやら半復したので、イツモのように七つ過ぎに起き出し、七つ半過ぎには出っ発。空いている薄暗い長後街道を飛ばし、厚木インターから東名です。春らしくなったとはいえ、さすがに高所の足柄付近は、薄着にした分だけ「寒ブッー!」。歯がガチガチ鳴ります。それでも沼津に近付くにつれ、海抜も下がり、何とか耐寒できた。富士インターで一旦降りてETCカードを交換し(土日、どこまでも1K円になれば、こんなコトしなくても良いのだが)、再び東名に。あれほど高速道を嫌っていたHYDではあるが、ツマらぬ高速道走行に慣れたのか、それともマヒしたのか分からないが、ここ最近はエラく多用するようになっている。「う〜ん、何時からコウなったんだろう、軟弱者が...」などと、ブツブツ言っている内に、袋井インター。ここで降りてコクイチを西上し、磐田から県道44号線を北上です。途中「匂坂中上」交差点を右(東)折して県道374号線に。1Kmちょっと走った所の「匂坂上原」信号を左(北)折して、1Kmほどで左手に寺谷浄水場、右手に長者屋敷が見えて来る。屋敷は奈良時代の遺構or居館ということであるが、土塁が立派であり中世に改変された館跡であろう。100m×100m位の四辺形の単郭で、堀・土塁跡がよく残っている。立派な案内板が立っているのだが、取替工事中で内容は不明。虎口に相当する間口が広過ぎるので、門跡なんだろうナァ。
↑ 主郭と門跡 ↑ 土塁・空堀跡
← 県指定史跡の石碑
  次いで、天竜に入りR152を北上です。このR152を数多く走っているが、いつも気になっていたコトがある。有名な「秋葉神社」への標識である。イツかは訪れたいと思っていた。それで今日は秋葉山の山頂まで行くツモリ。雲名(うんな)地区に入り、「秋葉神社」への標識に従って、雲名橋を渡って山側にドンドン入って行く。狭いが舗装された7Km程の林道をズンズン登って行きます。「秋葉城は、犬居城主が宗良親王を迎えるために建てた城で、秋葉山の山頂付近の石畳周辺が城域」らしい。でも、見事な石畳は残っていても、雰囲気はあまり感じられない。だが、神社本殿からの見事な景色を眺めれば、そんな瑣末なコトは吹き飛んでしまうゾイ。それにしても、こんなに山深い奥山にヨクぞ立派な神社や城を建てたものである。と思っていると石畳の上部の山頂付近に、「塩の道」があるではないか! う〜ん、この道の存在の方が驚愕。
↑ 石畳、秋葉城跡 ↑ 秋葉神社の本殿
尾根上に残る土塁跡のような地形  
  R152に戻り、天竜市街へ再び戻ります。「山東(やまひがし)」で左(東)折してR362を進み、500m先の「光明山遺跡」標識で左(北)折です。400m程北上して「光明小学校」に突き当たったら右(東)折し、300m程進んで3本目の路地を標識に従って左折です。この後、道なりに上って行くと「光明山林道」です。この舗装された林道を8kmも進むと「光明山遺跡」で、石垣が印象的な光明寺跡がある。この寺域が光明城の城域かと思っていたのだが、どうやら少し違うようである。勿論、寺そのものも防御施設だったコトには違いないだろうが、寺から少し離れた東尾根に主郭・櫓台・堀切跡が残っている。光明城への標識が真新しいので、どうやら最近になって、城址の案内整備を始めたようである。中曲輪の中にある小さな土檀のような石積み遺構が何の目的のモノか不思議。光明山遺跡は風光明媚でハイキングコースも設置されている。近世の城をホウフツさせる石垣と、遥か遠くまでの景色を十分に堪能した後、林道を下ります。
↑ 光明城址、櫓台跡の残る主郭跡 ↑ 光明城址、主郭脇の堀切跡
↑ 光明城址、中郭跡 ↑ 中郭に残る石積みの土塁跡(?)
↑ 光明寺址 ↑ 光明城址への標識
 麓に下山して今度は二俣城攻略の付城を攻めます。最初は、市内中心部の二俣小学校の裏(北)側にある蜷原(になはら)砦。R152を南下し、二俣大橋の信号を左(西)折して小学校に。小学校の裏に清瀧(せいりゅう)寺があり、この寺の墓地の先、西50m程の地点に腰郭のような跡が残っている。さすがに付城だけあって500m先の二俣城を眺められるが、太い竹に遮られて眺望はイマイチ。ただ200m西側の山上には展望台もあり、ココからは二俣城とスバラシイ景色が楽しめられる。なお、清瀧寺は松平信康の廟所でもある。
↑ 蜷原砦、主郭址? ↑ 尾根上よりの二俣城
↑ 信康の廟所・清瀧寺  二俣大橋よりの遠景
 続いて先ほどの二俣大橋を渡って、東タモトの南側にある栄林寺に向かいます。寺の南側にある墓地の裏山が毘沙門堂砦です。主郭にはNTTのマイクロ中継用の反射板があり、主郭の半分の遺構が消失している。それでも2箇所の虎口跡や土塁・横堀・脇郭跡、多段の段郭が確認できる。反射板が設置されている位なので、眺めは良さそうなモノだが、立ち木が邪魔して×です。
↑ 毘沙門砦、主郭の土塁跡 ↑ 毘沙門砦、主郭の虎口跡
↑ 毘沙門砦、主郭脇の横堀跡  二俣大橋よりの遠景
 シツコク、3つ目の付城を攻めます。R152から県道9号線に入り、天竜川に沿って北上です。天竜川から離れようとするトコロから県道を離れて平田大橋を渡ります。渡り切って山側への急坂な道を進み、2つ目の急カーブに右側に狭い脇道へ入る。これを進むと、郵便ポストが設置されており、「」となります。オカシイ、周りには民家は見当たらない。さらに50mも進むとピークで、右(南)側に尾根があり、この尾根上が和田ヶ島砦の城域です。尾根に入るとイキナリ堀切・土橋跡が迎えてくれるが、他の遺構は耕地化で消失したようである。ただ、堀切跡の手前の凸状の地形は、小石で補強された土塁跡のようだ。訪ねなかったが、ピークを下って行くと民家があります。
↑ 和田ヶ島砦、土橋跡 ↑ 和田ヶ島砦、堀切跡
↑ 和田ヶ島砦、土橋そばの土塁跡?  平田大橋よりの遠景
  今度は県道40号線で隣の森町に入ります。一宮地区に入り、「一宮駐在所前」信号を左(北)折して狭い農道を進むと、茶畑の中に八面神社がある。神社の裏(北)側100m先は墓地になっていて、この墓地の裏(北)の山が片瀬城です。墓地の上は電気ショックの柵が設置されていて、これを越えて4分ほど進むと堀切・土橋跡。残念ながら、この先は第2東名の工事で、山ごと完全に無くなっている。工事で法面が現れている分、立木も無くて眺めはスコブル良好、ちょち皮肉だナァ。
↑ 片瀬城址、堀切・土橋跡 ↑ 墓地よりの眺め
↑ 八面神社と城址遠景石碑
  さぁてとぉ、まだまだ攻めたい城があるのだが、ここらでチョット息切れ。この程度でアゴが出てしまうとは、我ながら、「情けねぇー」。ここ2、3ヶ月の間、腰が痛くてトレーニングをずーっとサボっていたからナァ。身体は正直である、もうチィーと鍛えなければ。土曜という曜日と時間の関係で、コクイチの各バイパスはどこも渋滞気味。しょうがなくてガマンを続けて{チンタラ+スリ抜け}で東下していたが、途中でプッツン。富士川サービスエリアのスマートETC入口から東名に入ります。順調に東下を続けるが、皆さん暖かい陽気に誘われたのか、乗用車がヤタラと多い。心配したように、途中で「横浜〜松田間25Kmの渋滞」の赤い表示。ドンドン厚木に近付くに従い、渋滞25Km表示も、30Kmとなってしまった。表示の通りに、松田インターを過ぎてから渋滞にハマります。スリ抜けを敢行していたが、後から爆音を轟かせて二輪が迫ってきた。よく見るとハーレー軍団である。ハーレーの鉄馬は{幅広な手綱+重い馬重}でスリ抜けは難しいのだが、恐ろしく速いハーレー軍団である。タメラわずに先を譲り、軍団の後にピッタリくっ付いて、後塵を拝してスリ抜けを続行。この軍団、とにかく速ぇーっ50Km/H以上の速度でスリ抜き進み、アッという間に厚木インターです。でも長後街道は相変わらずの渋滞で、ストレスが溜まります。スリ抜けしようにも道が狭過ぎ、だっちゅうーの。朝の通過時間の倍ほども要して、ようやくにご帰館。フゥーッ、ようやっとタドリ着いたワイ。薄暮の中、愛馬をキレイ・キレイにしてあげ、館に入ったら熱い風呂に長時間のガマンの子。玉のような汗も引かぬ内に、「いっただきまぁ〜す」でカンペーです。う〜ん、今日もビアーが美味いズラ。本日510Km走行も、下道が250Km程ではチョチ走り足りなかったカモ。明日は日曜、ユックリ休んでネ、チャンチャン。
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