■  畔田城  ■
■期日 H20年12月13日(土) 【愛知県】豊橋市・牟呂城・大崎城・伊庭城・畔田城、
                            田原市・波頭城・田原城
■ルート 戸塚自宅〜P22〜厚木IC〜東名〜富士IC(ETC交換)〜東名〜袋井IC
       〜R1〜豊橋C〜R293〜伊良湖岬〜R42〜湖西C〜R1〜袋井IC〜東名
         〜富士IC(ETC交換)〜東名〜厚木IC〜P22〜自宅
■コメント
 
寒波は去り、どうやら週末の土曜は天気も良くて暖かいようだ。それで翌・日曜は雨模様ともなれば、土曜は絶好の野駆け日和となる。当たりの然、出掛けずにはおられない。で、どこを攻城しようかとヒトしきり思案した。でもイロイロ調べるのも面倒なので、ズイブン昔に計画して行かずじまいの東三河の城攻めを行うことにした。とはいっても遠州・浜松より先となると、とても下道だけで行く(体力・気力・時間)がない。ので、高速を多用することにした。まぁ、高騰していたガソリン価格がモトのレベルに戻った(ヘタすると円高で安くなったかも)し、ETCカード割引を使用すれば安く行けるだろう。ってんで、暗い内に起き出し、暗い内に出っ発です。厚木インターから東名に乗ったのも、まだ暗い6時丁度であった。う〜ん、この時期としては寒くないワイ、うれしや。とか・なんとか言いながら、寒くてキツイ難所の足柄も越えて、富士インターで一旦降ります。ここでETCカードを交換し、またインターから入ります。徐々に明るくなり、気温も僅かづつ上がってきた。そうこうして、袋井インターで降ります。ここからコクイチで西上です。バイパスを幾つか過ぎ、浜名湖、湖西を過ぎて豊橋に入ります。残念ながら市内は、メチャクチャな都市政策で道路が碁盤の目になっていない。交差点の信号機もオカシナ動きをして超イラ立ちます。でも、それを抑えてキレずに市内中心部に入り、県道393号線で豊橋港側へ進みます。「牟呂町」信号を右(北)折し250m進むと、左(西)手にJAグリーンセンターというスーパーがあります。このスーパー隣に、小さな石の鳥居のある八幡宮があります。牟呂城はこの周辺ですが、現在は宅地化で、祠が祀ってある土塁跡以外は遺構はなし。
↑ 牟呂城址 ↑ 牟呂城址、境内の石碑
  豊橋港方向にさらに南下し、R23バイパスに入ります。このバイパスをなおも南へ下ります。すると「豊橋港インター」信号となるので、ここから県道2号線を南下し船渡町に入ります。「船渡町」信号の南3つ目の路地を右(北)折して150mも進むと、幸稲荷神社です。この境内と周辺が大崎城址です。神社境内には「大崎城址・本丸跡」と書かれた木碑がありますが、主郭は50m南側の小丘の中です。見応えのある深く幅広な空堀に、「これが土橋の見本」のような土橋が架かっており、これを渡ると主郭です。主郭内には井戸跡があり、周りの土塁もよく残っています。残念ながら竹薮で眺めはイマイチ、というかウロウロするのも大変。
↑ 大崎城址、土塁の残る主郭跡 ↑ 大崎城址、主郭の井戸跡
↑ 大崎城址、見事な土橋跡 ↑ 副郭の神社よりの眺め
↑ 大崎城址、遠望 ↑ 大崎城址、境内の木碑
  県道2号線をもう少し南に下り、隣の大崎町地区に移動します。大崎小学校を過ぎ、「大崎町」信号を過ぎて最初の路地を右(西)折して細道に入ります。道なりに進みますが、四輪では止めた方が絶対に無難。狭くて対向車とスレ違いが出来ません、キッパリ。ドンドン進んで下り坂になる30m手前の畑地が伊庭城址です。畑の中に土塁跡が僅かに残り、畑地の端っこの住宅側に、朽ち果てそうな木碑が立っています。
↑ 伊庭城址、土塁跡 ↑ 伊庭城址、朽ちそうな木碑
  県道2号線をなおも進み、三河港大橋を渡り田原市に入ります。橋を渡り終えてから県道を外れ特異な笠山を過ぎて波瀬町地区に。願照寺前の道を道なりに進むと雷電神社です。この境内と周辺が波瀬城址ですが、遺構はなさそう。神社裏の海側の公園から、この神社周辺の海岸段丘を見ると、ソレらしい雰囲気ではあります。
↑ 波瀬城址、公園側からの遠望 ↑ 波瀬城址、雷電神社鳥居前
 田原市の中心部に入り、アチコチに標記されている「田原博物館」を目指して進むと田原城址です。前にも一度来たことがあるので再訪になりますネ。10年振り位なのだが、それでも景観が結構記憶に残っていて、自分ながら驚いてしまった。前に来たときは近世城址のイメージが強かったのだが、中世の空堀・土塁跡も残っていて、コレまた驚き、桃の木、山椒の木。
↑ 田原城址、本丸跡の巴江神社 ↑ 田原城址、神社脇の土塁跡
↑ 田原城址、空堀跡 ↑ 田原城址、桜門前の石碑
 ここからR293で伊良湖岬を目指します。この道もそれとなく覚えている。ツイ最近の大事なコトをスグに忘れるクセに、妙なコトを覚えているものである。で、岬を過ぎて今度はR42で湖西市を目指します。田原市から再び豊橋市に入って間もなく、城下町地区に入り、国道左(北)側に城下町公民館があります(信号は無し)。トイメンは老人憩いの郷です。この国道から海側に進む道を行くと200mほどで道端に「畔田城址」の木碑が立っています。やったねぇ−、難なく攻城できそう。ってんで、この木碑周辺をウロウロ開始すると、ブッシュの中や民家の周辺に土塁状のモノが多数見てとれる。でも海岸段丘の特有の地形のような気もしてくる。う〜ん、遺構ではないかもしれないナァ。なおもウロウロするが、土塁状のモノが見つかるが、それ以外はあらわれない。しょうがなく、モトの木碑の所に戻り、さらに範囲を広げてウロウロ。すると木碑のある前の道を東に100m進んだ所に、同じような木碑が道路脇に立っている。「アッレッ?」、これは城址の木碑かと思ったのだが、道シルベの標識なのかぁ。とすると、この標識の先に城址がある筈、てんでこの標識の前の細い道を海側に進みます。舗装が途切れたところで鉄馬を降り、なおも進むと「ピンポォーン」です。多段の郭跡があり、いきなり枡形虎口跡が待っています。次いで大きな堀と土橋です。この土橋も見本になるような保存性です。2重の空堀を経て、小さな祠が2基祀ってある主郭です。土塁も残っており、全体が好印象の城です。(木碑様の標柱に矢印が付いていれば間違うことなく到達できて良かったのだが...。どうやら、標柱に達筆で「畔田城址」と書かれているが、この削平面が城址の方向を示しているようにも思えて来る)
↑ 畔田城址、土塁の残る主郭跡 ↑ 畔田城址、見事な土橋−1
↑ 畔田城址、見事な土橋−2 ↑ 畔田城址、副郭の虎口跡
↑ 畔田城址、空堀跡 ↑ 畔田城址、最下段の郭よりの眺め
 ウロウロしてしまった時間が勿体なかったが、畔田城の遺構には大満足。時計を見ると15時近い。う〜ん、早ぇーところ帰ろう、ここは遠い三河国である。R42を進み湖西からコクイチのバイパスで東下します。浜松バイパスはイツモのようにぬうわKmで突っ走っているバカが居るので、これにクッ付いて進みます。でも磐田バイパスからは1車線になるので、これまたイツモのように大渋滞です。で、路肩を走ってここをヤリ過ごしながら、袋井バイパスの袋井インターで降りて東名に早々に入ります。16時半を回っているので、一旦降りる頃には17時を過ぎて通勤割引を得られるという打算である。で、来た時と同じ富士インターでETCカードの交換のため降ります。交換後、再び東名に上がり東下再開。ところが沼津を過ぎると3Kmの事故渋滞表示で、チンタラ。それでも、スリ抜けでこの渋滞域を突破します。ここで「もしかすると、さっきの渋滞のお陰で松田〜厚木の自然渋滞はないかも」などと夢想してします。これが的中したようで、イツモ渋滞している区間もノンストップで厚木インターです。よっしゃぁ、この勢いで長後街道もスムーズに流れてくれよナァ。と祈ったのが雲の上に通じたのかして、さほどストレスを感じずにご帰館です。19時をチョチ回ってしまい、家族一緒の夕飯が気にはなったが、20分ほど掛けて愛馬をキレイキレイにしてから家の中に。遅くなったので今日は孤食かと思いきや、相方・娘も他出していたらしく、まだゴング開始前だった。ピッタシのタイミングで「いっただきまぁ〜す」のゴングです。今日も第三のビアーが美味い・ウマイ。本日620Kmとズイブン走ったが、高速多用だからネェ、ちょち不満の残る野駆け。次は下道を十分楽しもうネ、チャンチャン
↑ 畔田城址、木碑ではなく道標
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