■  金丸要害  ■
■期日 H20年6月1日(日) 【栃木県】大田原市(旧黒羽町)・大関城・金丸要害・
                       須賀川城・白旗城・矢組館、那須町・稲沢館
■ルート 戸塚自宅〜横浜新道・第3京浜〜玉川IC〜駒沢・環7〜梅島〜R4〜さくらC
       〜R293〜那珂川T〜R294〜大田原C〜R294〜那珂川T〜R294〜さくらC
        〜R4〜梅島〜環7・駒沢〜玉川IC〜第3京浜・横浜新道〜自宅
■コメント
  どういう訳か、このところ土日になると天気が悪い、もう梅雨に入ったのか。まぁ、タマには雨でも良いんだけれど、こうも続くとナァ...、とブツブツ言ったのが天に聞こえたものか、土曜まで雨だったのだが、明日の日曜は久し振りの晴天とのゴ託宣である。これは何を差し置いても出掛けねばならねぃ。勿の論、ヤタラと飲みまくって無理して早寝をし、3時半の早起きを断行。さすがに、この時期である、もうウッスラと明るいワイ。で、七つ過ぎの4時半には出っ発である。目指すトコロは下野の国、歴史の街でもある黒羽町(現在は大田原市に吸収合併されている)。横浜新道、第3京浜と順調に愛馬を走らせます。難関の環七も、「日曜+早朝」ということで、これまた順調に突破。梅島から日光街道(R4)を北上します。埼玉県内では市街地を抜けると、不思議なことに(サイタマ県では賄賂道路行政をしていない健全県政のせいか)、何と片側1車線なのである。が、栃木県に入るとガゼン変わってくる。そう、サーキット場かと思うような道に変貌するのである。当りの然、制限速度が50Kmの標識は無視して、皆さん100Km超で巡航している。「そんな状況+早朝+官憲は居ない」という中でもHYDは無茶はしない。一番早いバカっ速いヤツの後ろにピタリ着き、2番手でヒタ走ります。トップ引きにはならないのである。何のコトはない、HYDもバカに変わりはないかぁ...。などと思っている内に、もう小山市である。先ずは、バイクのお師匠さん宅を朝駆け。でも、トントンしても返事は無い。考えてみりゃぁ、まだ6時半だもんなぁ、まだまだ夢の中の筈である。さらに進んで宇都宮を過ぎ、さくら市の氏家へ。ここからR293で那珂川に進み、R294で北上します。すぐに、大田原市に入りますが、入ってから3Kmも走って右(東)折して県道27号線に入ります。那珂川に架かる湯殿大橋を渡って1Kmほどで片田小学校前の「片田」信号を右(南)折して、県道298号線を1.2Km南下します。右手の那珂川方向に土塁状のモノが見えるので、迷わず田んぼの中の道を進むとピンポーン、大関城です。那珂川面を除いた3面の土塁の半分ほどは消失していますが、かなり残っていて、1面の那珂川を組み合わせた防御構造がフムフムと想像できます。周りは田んぼですが、郭内は畑になっていて、小さな神社やお堂が建てられています。

■36°48′24.6″−140°07′58.1″、です。
大関城址、主郭と土塁跡 大関城址、虎口跡
大関城址、主郭と那珂川 大関城、外側から見た主郭の土塁跡
  続いて、県道298号線で先ほどの「片田」信号に戻ります。信号の手前(信号の南)250m地点から右(山)側に入る道があるので、近くでウロウロします。今日は地区の合同清掃日らしく、皆さんが鎌やゴミ袋などを手に持って、道路脇をキレイされている。事前情報では片田小学校の南側の山が山田城で、さらに南の山が金丸要害ということであった。しかし登り口をイロイロ聞いていると、「金丸要害の名前は知らない、後ろの山(金丸要害側)が山田城である、昔は地区の運動会をやった」ということであった。登る道を聞いたが、「この道を進めば行ける、でもバイクでは無理、小学校の上(東側)の方から行けばバイクでもOK」ということだった。まぁ、鉄馬を停めて、ジャケットも脱いでいるので、イマサラ面倒ということもあり、西側のココから登ることにした。すぐに工場のような敷地となり、「無断立ち入り禁止」の看板が立っているが、許可を求めようにも日曜で誰も居ない。無断でそのまま林道を道なりに進んで行くと、数分でナダラカな頂上付近に到着。林の中に進入する林道のようなモノがあるので進んで行くと、何と道ではなく堀底であった。この空堀は幅広で深い。高い切岸を登ると、石の祠が祀ってある広い金丸要害(地元の人は山田城と言っているのだが)の主郭であった。確かに、ちょっとした運動会なら出来そうではある。もっとも現在は植林した木々が生い茂っていて、運動会はとてもじゃないが出来ない。土塁も一部残存している。ただ、ブッシュがスゴくて郭内を自由に歩き回れない。しかも朝方までの雨で、雨露がこれまたスゴイ。「アッ」という間に、靴中はグジュグジュとなってしまった。おかしい、ゴア・テックス製の防水・通気性の靴なんだが。ヤッパリ、安物ではダメなのかも。ズボンの方も、かなり上までズブ濡れ状態に。う〜ん、退却準備をしなければ、それにしてもコレだけの遺構を前にして残念。それでも、この悪条件の中で幾つかの副郭を回り、主郭との間の堀の幅・深さ等に驚きいった。さて、隣の山の山田城を攻めるべくウロウロしたが、石切り場のような所で頓挫。垂直に切り立った高い崖に超驚愕、ビビリまくってしまった。この崖を巻いて登ろうにも、雨露とブッシュ攻撃がスゴクて、さすがのHYDも戦闘意欲が無くなってしまったワイ、情けなし元山岳部HYD。県道27号線を片田小学校から250mも進んだトコロに「学校園・館山」の看板があり、この林道を進めば四輪でも容易に金丸要害の主郭脇に到着できますヨォ。

■36°48′44.7″−140°08′25.0″、です。麓からの比高は測定せず、大したコトはなし。
金丸要害址、主郭跡 金丸要害址、主郭の土塁跡
金丸要害址、主郭脇の空堀跡 金丸要害址、主郭脇の空堀跡
右:金丸要害、左:山田城 山田城址、ここで断念
 今度は県道13号線で明神トンネルを越えて須賀川地区に進みます。2.5万分の一地図にある須賀川・如来地区の366mポイントの山が須賀川要害です。押川に架かる橋の手前100m地点に右(南)折する道があり、この道を300mも進むと、左に折れる地点がある。この地点から山側に入る草ボウボウの林道があり、これを進みます。すぐに広い場所があるので、ココに鉄馬を停め、なおも林道を進みます。200mも進むと分岐点があり、右に巻くような道を進みます。この道(道とは言えないナァ、きっと)、トゲトゲのあるブッシュが繁茂していて、進攻がメチャしんどい。革製の手袋+厚手のジーパンで防御しているのだが、時たまチクリ・チクリ痛ぇーい。鎌で刈りながら進められれば良いのだが、そんな便利な道具は持って来ていない。今度、100円ショップで鎌でも購入して、ザックの中に忍ばせておこう。棘トゲ攻撃にも屈せずに進みますが、ナカナカ進まない。たった50m位の距離なんだが、悪戦苦闘で時間がドンドン経つばかり。ようやく尾根際に取り付き、ここからは急な登山道です。が、トゲトゲよりコッチの急坂の方が楽チン。するとイキナリ段郭で、小さな石の祠が祀ってあります。この上からは連続した段郭で、これまでの苦労を忘れて、ニタニタしながら登って行きます。それにしても、この段郭、水平方向にもズゥーッと伸びているのが面白い。で、副郭と堀切を経て主郭です。麓から想像したように、ヤハリ見通しは×でした。主郭の先には深い堀切があり、別の副郭へと続きます。主郭下の別の尾根にも連続した段郭が残っています。

■36°50′38.1″−140°13′51.2″、比高は61mです。
須賀川要害、主郭跡 須賀川要害、断郭跡
須賀川要害、登り口 県道13号線よりの須賀川要害遠望
 そろそろ、お日様も高くなって来て、嫌な雨露も上がり始めた。鉄馬で走っている内に、走行風で登山靴の中のグジュグジュも解消している、ウレシヤ。で、R461の途中から北上し、余瀬地区に入ります。地区にある西教寺に進みます。寺近くの道路脇に、立派な白旗城の案内板が立ってます。20m離れた所には、付近の歴史関連の案内図もあり、両方をフムフム読んで頭に入れ、先ずは白旗城を攻めます。案内板は立派であったが、城域は愛宕神社の参道を除いて、全てヤブの中である。義経塚(どうみても土塁跡としか見えないが)がある郭、愛宕神社のある主郭、両隣の副郭との間には、幅広で深い横堀が残っている。でも、どの郭内へもブッシュで入れない。事前に得た情報でも郭内には特に遺構は無さそうなので、まぁいいっかぁ、と負け惜しみ。

■計測忘れ
白旗城址、主郭跡
白旗城址、主郭脇の横堀跡 白旗城址、登り口
白旗城址、道路脇の案内板
 先ほどの付近の歴史史跡の案内図の所に戻り、もう一度フムフム。でウロウロすると、芭蕉が「奥の細道」で陸奥への途中で立ち寄ったという鹿子畑館が田んぼの中にあった。芭蕉一行はここに何日も滞在したようで、句会も開かれており、その時の句も掲げられている。う〜ん、鹿子畑氏・地元の方々の教養には、恐れ入谷の鬼子母神。

■計測忘れ
鹿子畑館跡と氏の墓地
  R294に戻り、なおも北上します。旧黒羽町から那須町への町境の手前の寒井地区に矢組館があるというので、ウロウロしますが探し当てられない。どうやら行き過ぎたようで、那須町にシッカリ入ってしまっている。戻ろうとした時、得意の動体視力は国道脇の石碑を見逃さなかった。何やら「...跡」と書かれていたような。Uターンして、よぉーく見ると稲沢館の石碑であった。石碑のスグ後が土塁跡である。ウロウロすると、他にも土塁の一部分が残存している。でも宅地化と農地化で殆どは消逸している。

■36°55′33.1″−140°07′55.6″、です。
稲沢館址、土塁跡 稲沢館址
  さぁてとぉ、探している矢組館であるが、どうにも見つからない。ここで、黒羽町と那須町の境付近のR294が妙に新しかったのに気が付いた。近くにR294の旧道があり、その道路沿いにクダンの館跡があるのではないか。この推測で、県道34号線を走っていると、那須町の手前の寒井地区で、那珂川側の田んぼの中に、草に覆われてはいるが、ソレらしい石碑を発見。近寄って草を取り払って見ると、確かに「矢組館跡」と書かれている。周りは宅地と水田と化していて土塁状の地形が残っているだけです。

■36°55′39.2″−140°06′24.2″、です。
矢組館址遠望 矢組館址
  黒羽地区にはマダマダ城は多い。で、次の城を攻めるベク駒を進めていると、いきなり目の前から白いモノが風に飛ばされて田んぼの中に。何が何だか分からなかったが、とにかく鉄馬を急停車させた。田んぼの中を見ると、攻城のための2.5万分の1地図やら縄張り図などが、田植えが終わった田んぼの中ホドに落ち込んでいる。どうやら、道路地図と一緒にしていて、シッカリ留めていなかったため、風圧で飛ばされたらしい。う〜ん、どうしよう。材質が紙だから、ベタベタになっていて使い物にならないなぁ、きっと。でも、ホッタラカシにして置く訳にもいかない。せっかく植えられた稲の苗が×になる。しょうがない、使えなくなった資料を取って来よう。靴を脱ぎ、靴下も脱いで、恐る恐る田んぼの中に足を踏み入れます。幸いなことに沼田ではないので、ズボォーッと深くまで足が入らない。5mばかり田んぼの中を進み、紙の資料を回収。近くの用水路で足の泥を落とし、ヒナタで足を乾かします。ここでマッタ〜リしている内に、又しても戦闘意欲が消滅。スデに14時を回っている。せっかく遠路ハルバル大田原まで来ているが、ココらで帰陣することにした。そうと決まりゃぁ、脱兎の如くである。先ずは帰りのルートをアレコレ考える。一番早いルートは、来た道をそのまま帰るという単純明快なコトであった。で、R294からR293に入り、さくら市の氏家からはR4を南下します。小山でバイクのお師匠さん宅を再度訪れるが、今度は出掛けられているようだ。再びR4を南下し、都内に入ったら環七を進みます。日曜のため、さほど渋滞もせずに柿木坂。ここから駒沢通、第3京浜、横浜新道と進み、18時チョチ過ぎに早々とご帰館。まだ明るいので、十分に愛馬の世話をしてキレイ・キレイに。今日一日、ごくろうさん。この後、シャワーを浴びて、スタンバイOK。本物缶ビアーをプッシューと開け「いっただきまぁ〜す」のゴングでゴクゴクと喉に流し込みます、「プワァー、うっめぃー」。本日460Kmなり、今日は早くお寝んねしてネ、チャンチャン。
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