■  羽黒城  ■
■期日 H20年3月29日(土) 【茨城県】桜川市(旧岩瀬町)・羽黒城・橋本城・礒部館・
                                  池亀城・岩瀬城・富岡城
■ルート 戸塚自宅〜横浜新道・第3京浜〜玉川IC〜目黒通・R1〜日本橋〜R6
       〜牛久C〜R408〜つくばC〜P41〜桜川C〜R50〜小山C〜R4〜梅島
       〜環7・駒沢通〜玉川IC〜第3京浜・横浜新道〜自宅
■コメント
  愛馬のユーザ車検も何とか終わらせた。しかし、前回・今回と同じヘッドランプでこんなにもトラブるとはナァ。このドタバタ騒ぎで、攻城の野駆けにも出掛けられなかった。...ので、今度の休みには何としても出掛けようと早々と準備。今回も常陸の国である。しかも無謀にも、久し振りに大東京を横断しようと考えた。ヨクヨク考えてみると、ここ4、5年は東京を横断していない筈だ。で、朝早く突っ切ってしまおうと、5時前には出っ発。横浜新道、第3京浜と進み、目黒通りなどでコクイチ(R1)に入り、五反田・六本木・桜田門・大手町と過ぎて日本橋である。う〜ん、久し振りだから、通り過ぎる景色も新鮮だったワイ。てなコトをゴチながら、ここから水戸街道(R6)を進みます。池波正太郎の小説でお馴染みの、江戸時代からの古い地名を幾つも過ぎて荒川を渡ると、もう下総。ここからも見覚えのある景色の中を進みます。それなりに朝が早かったから、さほど混雑に出会わずに利根川を渡ります。ココから先はいつも空いている道である。まぁまぁの速度で進むと、アッと言う間に牛久沼の畔。ここからR408で北上です。この道は初めて通る。学園都市という人工的な景色の中を進みますが、ココの住人は皆さんスピード狂とみた。100Km超でバンバン飛ばしている。「ヲイヲイ、そんなに速度を出していいんかよぉ」と問うと、「いいんだよぉー」という無言の返事。彼らに追走してぬふわKmで巡航です。途中から筑波山を巻いて県道41号線で桜川市(旧岩瀬町)を目指して北上です。岩瀬の市街でR50に入り、水戸方向(東へ)に進みます。笠間市との市境の手前で、左(北)手に棟峰(北側)と羽黒山(南側)の双コブの山容があります。市境付近で山側に入る道を進み、山懐に到着。周りには小さな沼が2つあり、近くに鳥居と「棟峰城址」「羽黒城址」の2つの木碑が立ってます。全く道に迷わずスンナリ登城口に来れたワイ。鳥居脇に鉄馬を停め、石の鳥居をクグって幅広の道を進みます。鳥居があり、ズイブン整備された道なので、頂上部には大きな神社でも祀ってあるカモ。で、なだらかな道を真っ直ぐ登って行くと、斜面がドンドン急となり、手を使わない限り登れそうにない位に急坂に。ここまで急坂だと、さすがにロープが設置されている。でも、こちとらぁ元山岳部員、この程度でロープのお世話にはなりたくない。が、如何せん雨上がりで道がツルツル滑る。しょうがなくヤセ我慢を止めてロープに頼りながら、アエギ・アエギ登って行く。...と、土塁と空堀が残る副郭に到着し、これを3郭ほどヤリ過ごして13分で羽黒城の主郭です。主郭には石垣で補強された土塁・虎口がシッカリ残っている。う〜ん感謝・感激・雨・アラレ。それにしても、この辺りの山城では、こういう石積みの土塁の例は少ない筈。またまた、うれしくなってニタニタしてくる。主郭には小さな社が祀ってある。どうやら麓の鳥居は、この小さな社の社門のようだ。主郭の先にも郭跡と堀切跡が残っているが、竹のブッシュがモノ凄くて、これ以上は侵入出来ず。アキラめて戻ります。2.5万分の一地図で見る限り、稜線に沿って隣のピークの棟峰城へ行けそうだったのだが、この藪では絶対に無理。主郭に戻り、しばしマッタ〜リして、木々の間からの眺めや、芽吹き始めた春山を堪能してから下山です。途中、「急坂+雨上がり+落ち葉」で2回も滑ってシリモチ。手で体をカバったため、革製手袋は泥だらけに。下山してからも、シツコク棟峰城へ行けそうな道を探したが、個人の敷地で「立ち入り禁止」などの標識があり、完全アキラめモードに突入。

36°21′26.3″−140°10′00.5″、比高は166mです。
石積みの土塁の残る主郭 羽黒城址、主郭の土塁跡
羽黒城址、主郭脇の空堀跡 羽黒城址、主郭の虎口跡
羽黒城址、主郭脇からの眺め 羽黒城址、登り口
羽黒城址の遠景
  R50に戻り、岩瀬市街に進みます。桜川公園へ進む道の手前で桜川を渡るが、この橋の200m程手前に南に曲がる道(信号無し)があり、ここを左(南)折し踏み切りを渡って山側へ進みます。2.5万分の一の地図で、たぶんこの辺りだろうという勘だけで進みましたが、またもやピンポ〜ン。真っ直ぐ進んで山懐に到着すると、上城地区の村社・爪黒神社でした。この裏山が橋本城です。境内に鉄馬を留め、立派な神社沿革説明板の裏の道を50mも登って行くと、堀底道のような切通しの登山道となります。何本かの倒木が道を塞いでいますが、割と緩やかな坂道で快適に登れます。途中、猪か何かの動物のヌタ場があり、「こんな人里に近い所に!」と驚きながら進みます。登り始めて10分弱で、空堀と橋本城の木碑の前に。「おぉーっ、割と近かったジャン」などと一人ゴチて進みますが、ナニ・ナニ、ここからマダ・マダ進まなくては主郭には到達できません。それだけ城域が広いのです。幾つかの土塁・空堀・郭を過ぎ、麓から14分で広い主郭です。中央部に櫓跡が残り、桜木が植えて公園風になっている。ここにも土塁跡が残り、さらに尾根伝いに南に下って行っても土塁・空堀の残る小さな郭がある。残念ながら、この先はブッシュで行けそうにも無かったので、ここでUターン。主郭の周りの幾つかの腰郭や段郭などをアチコチ巡っている内に、どうやら迷子になったようだ。登って来た道に戻れなくなってしまったワイ。まぁ、その内には木碑の所に行けるだろうと、これを幸い(もうポジティブなんだから...)にと、さらにアチコチ徘徊。う〜ん、ズイブンと面白い縄張りではある。また、それだけ遺構がよく残っていて、分かりやすいのである。今回はマッタ〜リせず、ウロウロして元の木碑の所に戻り、急いで下山します。登って来る時は、倒木の下をクグったり回り道して進んだが、これって結構大変。で、ナニゲに倒木の真ん中辺りに力を入れると、かなり腐っているらしく、ポキッと折れる。このため下りる道すがら、後の人が歩きやすいようにと、倒木を何本も真ん中で折りながら戻ります。麓の神社に戻り、背中に背負ったザックを降ろします。ここでナニゲにウエスト・ポーチを見ると、ジッパーが開いている。「アッレィ? おかしいナァ」、確かに閉めた筈だったんだがぁ。で、口の開いたポーチの中をノゾいて「 ゲーェッ! 」となった。あろうことか、財布とケータイが無いのである。いくら小さなポーチの中を逆さにして探しても、無いモノは無い。ガァーン。それまでのルンルン気分が超ブルーに急下降。どこで落としたのだろう。さっきの羽黒城の下り道で、2回ほど滑って転んだが、あの時だろうか。それとも、橋本城から下って来る時に、倒木を力まかせに折った拍子に落としたんだろうか? ハタマタ、橋本城で道に迷ってウロウロした時であろうか。橋本城だったら絶対にマズいぞ。ウロウロし過ぎて(道に迷って)、同じトコロを探し回ることは絶対に出来ない。う〜ん、弱った・困った。財布には現金が3万チョットとキャッシュカードにクレジットカードが数枚這入っていた。おまけにケータイはまだ1ヶ月も経っていない超おNew。う〜ん、困った。とりあえず神社にお祈りし、神頼みしてから橋本城へ再び登り始めます。登りながらアレコレ考えた。見つからない可能性が大だから、下山したらすぐに交番へ行こう。現金はアキラめるにしても、クレジットカードの方は大変だナァ。カード会社の名前さえウロ覚えでは、クレジット会社への取り扱い禁止の電話も要領を得ないよナァ。などと落ち込むコトしか頭に浮かばない。これまでも、攻城中に鉄馬のキーを2回も落としているが、奇跡的に2回とも見つけている(現在は発見しやすいように黄色の蛍光物を貼っている)。今度も、何とか見つかって欲しい。で、登り始めて200m程のトコロで、「あったぁ!!」と狂喜の大声を上げた。財布とケータイが一緒になって落ちていたぁー。どうやら倒木を折った時の反動で、口の開いたポーチからこの2つが飛び出したようだ。それにしてもウレピィー、涙が出そう。九分九厘まで×と思っていたのであるから。麓に戻り、神社にお礼のお賽銭500円玉(ケチとは言わないでネ、こんなにも高額なのはHYDは生まれて初めて)を入れるのでした。

■36°20′52.0″−140°07′24.3″、比高は139mです。
橋本城址、主郭跡 橋本城址、主郭脇の空堀跡
橋本城址、木碑 橋本城址、遠景
 またR50に戻り、岩瀬市街に500mも戻ると、有名な「桜川公園」への標識です。桜川公園の北側スグそばに磯部稲荷神社がある。この境内と周辺が磯部館跡。境内に2重の空堀と土塁跡が残っているが、遺構はコレだけのようである。まだ桜の開花にはほど遠いので、花見の人混みは避けられたが、時期が時期であれば、大変なサワギになっている筈。
礒部館跡、空堀跡 礒部館跡
  さらに北側へ進み、山懐の池亀地区に入ります。地区よりさらに山側に入っていくと五大力堂という由緒あるお堂です。ナカナカに古そうな木像(平将門の時代)が5体祀ってある。で、このお堂から下へ通ずる山道を下って行くと、池亀城かなぁ?。でも何やら、それらしい雰囲気はあるものの、周りは城の体裁となっていない。案内板・碑なども無いし、間違っている可能性大。地区に戻り、地元の方にイロイロ尋ねるも、全く要領を得ない。麓の畑の前に池亀城の木碑が立っているが、「これより500m先の山林の中」と書かれているだけで、具体的な場所の明示なし。この畑の所有者の婆サマが農作業をされておられたが、チンプン・カンプン。しょうがなく時間を掛けてウロウロ・アチコチ走り回ったのだが、全く分からず。
池亀城、木碑
  岩瀬市街に戻り、R50北側の県立岩瀬高校グランドそばに到着。土塁のような所に岩瀬城の木碑が立っています。木碑の上にも、城址の木碑らしいのが立っているので、ココを5mほど登ると犬に吠え立てられました。どうやら副郭の土塁の上です。うるさく吼えるのは、副郭内にある「せいかん荘クリニック」の2匹の飼い犬。道理でステレオのように左右から聞こえた筈である。この副郭の西側が割と広い主郭で、土塁・空堀がよく残っています。さらに西側の郭は小さくて、現在は墓場になっており、お堂が祀ってあります。主郭は竹ブッシュが多いですが、何とか歩き回れるレベル。ウロウロすると、両郭間の横堀・土塁がシッカリ残っていることが良く分かります。2重の空堀部分もあります。
岩瀬城、主郭脇の空堀跡 岩瀬城、木碑
 R50を小山方向に進み、「鍬田」の信号を過ぎて桜川を渡り、最初の感応式信号を右(北)折して山側に進むと、山際に何やら木碑が立っている。たぶん、富岡城の木碑だろうと近づくと、まさしくピンポーン。今日は財布を落とす大トラブルがあったが、城址までの道は全てスンナリである。すぐさま鉄馬を下り、木碑の上の道を数m登ります。登ってみると、土塁が残る腰郭で、さらに上へ行くと、広〜い主郭です。主郭の周りの幅広な空堀・土塁がよく残っている。単郭の城かと思ったが、西側の畑の中にも土塁が残っており、幾つかの郭で構成されたモノのようだ。主郭の中心部には小さな石の祠が祀ってあり、主郭脇には神社も建ってます。この城は平城に近いが、これでは守るのが難しい筈なので、たぶん現在田んぼのトコロは沼地のような地形だったんだろうナァ、きっと。
富岡城、主郭跡 富岡城、主郭脇の空堀跡
富岡城、副郭脇よりの眺め 富岡城、木碑
 ソロソロ13時半になろうとしている。腹も減ったし、モウ帰るとしよう。で、R50を西に進み、途中でラーメンを食して小山へ。ここからR4を南下するツモリ。それにしても北風が強くなりズイブン寒くなって来たゾイ。財布騒動の際、急いで上り下りしたモノだから大汗をかき、防寒のインナーや下着等を脱いでいる。どこかでコレを着なくチャァ寒くて鉄馬に乗れない。とは言っても、人前で着替える訳にもいかぬし、どうしたものか。...と、思って進んでいると前方から大きな鉄馬(CB1300、軽自動車の倍の排気量車)に乗った見覚えのある体型の人とスレ違った。バイクのお師匠さんだったような気がする。急いで鉄馬を停め、路傍でケータイにて連絡しようとしていると、クダンのお師匠さんご登場。う〜ん、間違いなかったようだ。師匠曰く「珍しい鉄馬なので、HYDとスグに分かったヨ」。これはちょうど良い、お師匠さん宅で着替えをさせて貰おう。小山郊外の単身赴任の家へお邪魔し、着替えをしてから再見。一路、お江戸を目指して南下します。あまり渋滞にハマらず環七まで進めたが、環七の大原辺りで大渋滞にあい、駒沢通りを進んで玉川インターから第三京浜へ。この道を少し進んだところで、前方に黒い雪雲が見えて来た。しかも、尻尾を下に出しているように見えるので、確実に雨が降っているナァ(HYDは望天観測が得意なのである)。もしかして・ひょっとして、あの中を突っ切るコトになるような...。案の定、横浜新道に入ったトコロで、雪雲による雨の中に突入。「クッソォー」、雪雲による雨では気象庁のバカ共には予報は立てられまい。今日の降水確率10%でも、これじゃぁ黙って我慢の子です。それでも大きな雪雲ではなく、1Km程走ったトコロで雨も止んだ。あまり濡れずにご帰館、良かったワイ。フゥーッと大きなタメ息。それでもポツポツとは降ってくるので、愛馬の手入れもせずに家へ入ります。夕飯前に熱〜ぃ風呂に入り、タップリ汗を流して、「いっただきまぁーす」。うまいビアー(今日は財布が戻ったので格別の日、本物ビアー)をノドに流し込むのでした。本日330Kmとソレナリの距離、ヨォーッお疲れさん、チャンチャン
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