■   アド山城  ■
■期日 H19年11月23日(金・祝) 【栃木県】野木町・法音寺城、岩舟町・小野寺城、
         佐野市・アド山城・豊代館(佐野居館)、足利市・名草城・南氏居館・助戸
         新山(尻無山)城・岩井山城
■ルート  戸塚自宅〜横新・第3京浜〜玉川IC〜環7〜梅島〜R4〜境T〜R354〜古河C
        〜R4〜野木T〜R50他〜佐野C〜R293他〜足利C〜R50〜太田C〜P69
         〜伊勢崎C〜R17〜熊谷C〜R140〜花園IC〜関越・圏央・中央〜八王子IC
          〜R16〜相模原C〜R129〜厚木C〜P22〜自宅
■コメント
  今年も早11月の後半、信州や上州等の山側へは路面凍結でもう行けないナァ。それじゃあ、ってんでWeb上の地図情報で、アレコレ調べモノをしながら攻城先を考えていた。HYDはWeb上の地図の中ではMapFanが好きで、モッパらこれを使用している。特に印刷時の使い勝手が良いので気に入っているのだが、城跡の表記が非常に多いのも超ウレシイのである。このMapFanで、ナニゲに下野の【山越邑】周辺を見ていた時、突然に「」となった。カタカナ表記で『アド山城跡』と記(シル)されているのである。ふ〜ん、蝦夷のチャシならカタカナ表記は当然ではあるが、内地でもこういう城名があるんダァ。当然、行くしかないでしょう。でも・しかし、山城を丹念に攻略されている先輩諸兄のWeb情報でも、この城の情報は皆無である。登山口・遺構の有無など、全く情報は無いが、まぁ行きゃぁ何とかなるだろう、といういつものノウ天気なHYD。で、佐野・足利を中心に未攻略の城とアド山城を攻めるべく、早起きの良い子であった。それでも夏場と比べると、さすがにチョチ遅い5時半に出遅れて出っ発。大東京も朝マダ早いので、渋滞も全くなく環七からR4を北上します。例によって、R4バイパスでは皆さん速度超過で走っている。こっちも真似してぬわわKmを維持して巡航し、「あっ...」という間に埼玉・栃木の境の境町に。ここからR354で旧道のR4に入ります。なおも北上すると野木町に入り、しばらく走ると国道沿いに法音寺の山門が建ってます。この境内周辺が法音寺城ですが、新しい墓地の売り出しをしているなど、イロイロ営業努力をされている。果たして遺構は残っているかいなぁ? と心配する間もなく、竹薮の中に大きな空堀を発見。境内のグルリを回ってみると、土塁・空堀がアチコチに散見できます。住宅や農地化で、ドンドン遺構が破壊されている中で、これはウレシイ。
法音寺城址、空堀跡 法音寺城址、土塁跡
  次いでR50に入り、今度は西へ向けて進みます。片側2車線の国道で、渋滞前の時間ということもあり、ぬわわKmで巡航していると、後からの車にドンドン追い抜かれてしまう。それでも、「あと1ヶ月は良い子でいよう、累積点もゼロになるから」と、危ない四輪にはクッ付いては行かず、ガマンして巡航速度(ヲイヲイ、速度違反だっちゅうの)を維持。佐野市に入ってから県道75号線を北上します。しばらく進むと岩舟町に入り、小野寺地区に入ると右側に東北自動車道が近くに見えてきます。高速道が最も近くに見える辺りの、特に信号もない交差点を右(東)折すると高速道の下をクグるトンネル前に到着。傍らに小野寺城の石碑が立ってます。付近を探索すると堀跡のようなモノもありましたが、遺構は無いと考えた方がヨサゲです。高速道の反対側には、「小野寺 道綱」の墓があります。墓の前の田んぼの持ち主から、イロイロと話を掛けられてきたが、「北は北海道から南は九州までの小野寺姓の方がよく訪れる」とのコトである。
小野寺城址 小野寺道綱の墓
 同じ県道75号線をなおも進み、途中からR293に入り鹿沼方向に進みます。秋山川を渡った所で、左(北)折して県道200号線を北上します。正雲寺地区に入ると、県道沿いに「佐野源左衛門常世の居館」の案内杭が立っているので、標識に従い狭い路地に入ると地区の公民館前に到着。公民館西側の広い農地周辺が豊代館(佐野源左衛門常世居館)の館域です。農地の四囲の所々に土塁跡がよく残っています。
豊代館址、主郭跡 豊代館址、土塁跡
豊代館址、案内板
  さぁてとぉ、いよいよアド山城である。県道200号線をもう少し北上すると、「仙波(せんば)」の交差点となるが、交差点の手前傍らに「常盤小学校」への大きな案内標識が立っており、その横に「アド山城跡」への木柱が立っていた。これは・これは、案外簡単に攻城できるカモネ。標識に従い道なりに進み、小学校を経て山懐の由緒ありそうな金蔵院の広い駐車場前に到着です。ココに鉄馬を停め、鎧兜を脱いで軽装になって攻城準備完了。脇の墓地入り口に「アド山城跡」への標識があり、コレに従って整備されたハイキング道を登ります。歩き始めて9分で最初の堀切に遭遇。堀を隔てて両側とも削平されている。しばらくするとピーク点となり、なおも進むと堀切が2条残っています。こちらの堀切も両サイドとも削平されている。石積みの部分も残っている段郭を経て、墓地から22分で主郭に到着です。かなりの見晴らしの良さで、下界を見下ろすと疲れも吹っ飛びます。主郭の先にも堀切が僅かに残り、その先は天然の堀切。371mの三角点のある主郭に戻り、しばしマッタ〜リ。元気が出たトコロで下山です。植木の手入れが行き届いた金蔵院は由緒あるだけでなく、佐野氏とも密接なつながりがあるようである。有力な家臣の居館跡が金蔵院で、詰め城がアド山城ではなかろうか。

■36°26′17.5″−139°36′19.0″、比高は計測忘れ。
アド山城址、竪堀跡 アド山城址、石積みの段郭跡
アド山城址、山頂の三角点 アド山城址、主郭よりの眺め
アド山城址、城址の遠望 県道200号線の案内標識
  
 R293に戻り、国道を足利に向けて走ります。途中から県道208号線を北上し、名草(なぐさ)中地区に入ります。県道沿いに、アド山城と同じ名前の金蔵院の山門が建ってます。この境内が南氏居館跡です。墓地の周辺に土塁跡が残っているという情報であるが、妙に新しい感じがして遺構とは思われない。境内の墓地から北西に見える山が名草城である。居館からはちょっとバカリ遠いような気がするナァ、全然関連ないかも。
金蔵院の山門 金蔵院境内の五輪塔
  その名草城を攻めるべく山懐の清源寺に進みます。どうやら南氏の墓が山林の中にあるようなので、話しのタネに寄ってみた。冬用の鎧(防風防寒のライディングジャケット)を脱ぎ、山登りに備えて薄着になったところで攻城開始。先ずは寺の右側の林道を登り始めますが、すぐに山道となります。この山道も雑草が生茂っており、足元の空間を這うようにして進みます。と、この道もスグに無くなり、寺の右側の尾根を直登する羽目に。それでも、岩場状で雑草が生茂っていない分だけ登り易く、所々にあるケモノ道を汗をカキかき尾根上へ。尾根道はウッスラ残っていて、歩き易くドンドン高度を稼いで19分でようやくに主郭に。主郭の周囲の土塁が僅かであるがグルリと残っており、虎口もシッカリ確認できる。空堀・堀切も残存してます。

■36°23′33.2″−139°28′15.8″、比高は184mです。
名草城、主郭の土塁跡 名草城、主郭脇の空堀跡
名草城、麓の清源寺 名草城、南氏館よりの遠望
  次いでR293を再び南下し、足利市街に入ります。袋川に架かる千歳橋を渡ってスグの右手の樹林で覆われた丘が尻無山(助戸新山)城です。現在は助戸新山公園となっており、雰囲気や削平地と思われる箇所は残っていますが、遺構とは断定できず。まぁ、これだけ住宅街の中では致し方もないかも。
尻無山城、助戸新山公園 尻無山城、遠望
  さらにR293で市街を突っ切り、渡良瀬川に出ます。これに架かる田中橋から下流(東)側を見ると、川の中に小島が浮かんでいるような所があり、橋も架かっており渡ることが出来ます。渡った先が岩井山城です。中腹に赤城神社があり、この周辺が城の中心部か。ただ、郭跡は確認できるが、それ以外の遺構は無さそう。
岩井山城、土塁跡 岩井山城
岩井山城、田中橋よりの遠望
 時間も時間なので、この辺で攻城は終了。それにしても、数多くの城・居館を巡り回ったものだ。HYDはその場所に行くことが目的みたいなトコロがあるので、この攻城数で大満足。R50を進み、途中から県道69号線で伊勢崎に出ます。ここからR17で南下し、熊谷からR140を進み、花園インターから関越自動車道に乗ります。ETC割引があるので、このまま八王子ジャンクションを経て八王子インターで降ります。それにしても、かなりの高速道の多用、軟弱になったモノだぁ。とブツブツ言いながらR16、R129で厚木に入り、渋滞の長後街道を進みます。トップリ日が暮れた中、19時にご帰館。愛馬の脚を拭いてやったりなどの世話をして、食卓に着いたのが19時半。ここから「いっただぁきぃま〜す」のゴングで第3のビアーをタラフク流し込むのでした。本日380Km、明日も土曜で仕事は休み、ユックリ休んでネ。
【山越】
「やまごえ」(HYDの本名):安蘇郡山越邑発祥、藤原氏秀郷流... ということになっている。まぁ、HYDの出自がこの流れに入っていたのか・どうかは疑わしいが、この山越邑を訪ねたことも何度かある。確かに、この地には「山越」姓が多い。
 
【MapFan】
今回の攻城でも、アド山城・助戸新山城・岩井山城の3城がシッカリ記されている。
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