■   鬼場城  ■
■期日 H17年4月21日(土) 【長野県】茅野市・湯川城・埴原田城・鬼場城・
                               齢松山城・粟沢城
■ルート 戸塚自宅〜P22・R412〜相模湖IC〜中央道〜甲府昭和IC〜R20〜富士見T
       〜P17他〜白樺湖〜ビーナスライン〜和田峠〜ビーナスライン〜白樺湖〜R152
       〜茅野C〜P17・R20他〜甲府昭和IC〜中央道〜相模湖IC〜R412・P22〜自宅
■コメント
 絶好の野駆シーズンである、イニシエの武将たちも同じ気持ちで、この季節を待っていたのだろうか。とにもかくにも、晴れのご託宣を受けて、出っ発である。行き先は霧ヶ峰というか、ビーナスライン。ライダー達が選ぶ道路の中でも、北海道を除けば草津・志賀のR292と並んで筆頭格である。もしかすると、利用料金が無料になったから、ダントツの一番かもネ。野駆だけでなく、攻城もしようと欲張ったことを考えたため、今回は相模湖〜甲府昭和間は中央道を利用し、R20をチンタラ諏訪方面に。諏訪南インターの所を山側に入り、標識に沿って白樺湖方面に向います。もう、この県道17号線辺りでアドレナリンが出始めます。R152と走り、白樺湖からは全開モード。まだ9時前というコトもあり、ノロマな観光バスも1台もいないため、アドレナリン過放出に。「アッ!」という間に車山・霧ヶ峰・八島ヶ原湿原を過ぎて和田峠。この先の扉峠まではマダマダおいしい所もいくらかあるのだが、さほど楽しめないので、ここでキッパリ引き返します。ウォーミングアップが終っている分、来る時より戻りの方が鉄馬にも乗れており、アドレナリンは20%増しで、スピードもぬ○○Kmとさらに20%超過。往復30Kmほどを堪能して(所用時間は内緒ネ)再びR152。途中、北山地区の北山小学校辺りをウロウロします。小学校の南西500mほどの県道192号線沿い(この道もビーナスラインらしい)で、信玄公ゆかりの「お茶清水」という標識を見つけ、道路沿いの史跡に。そこに付近の信玄公ゆかりの史跡案内板が立っており、すぐ傍の棒道(当時の軍用道路)や原の城・枡形城の位置と遺構概要が記されています。ラッキー、こうも簡単に見つけられるとは思ってもいなかったワイ。ハヤル心を押し沈めて、先ずは傍らの棒道を探索。ここを信玄自身や武田騎馬軍団が何十回も通ったんだろうナァ、などと感慨に耽ります。ついで先ずは原の城へ。すると農道沿いに湯川城の案内板が立ってます。フムフムと読むと、どうやら原の城と枡形城は一体であったそうな。原の城の周りは畑地で、ビニールハウス横に案内板が立っており、付近の簡単な状況が書かれています。でも大規模な空堀跡は確認できるものの、土塁は確認できず。次いでお茶清水の案内板に、三日月堀跡が記されている枡形城へ。興味津々で来てみたが、周りは田んぼで三日月堀跡など゙は到底確認できず、残念。それでもココにも大きな堀跡は残ってます。
原の城址、大きな空堀 原の城址、畑の外れの案内板
桝形城址、大きな空堀 桝形城址、田んぼの中の案内板
  さらに県道192号線で埴原田地区へ。バス停の「埴原田口」の脇の道を山側に入り、山懐に入ったところで、地元の方に埴原田城の場所を聞きます。多分あの丘だろうと考えていた通りの丘上でした。登り口は山懐の観音堂の後にあり、腰郭を幾つか見ながら5分弱で本郭に到着。小さな祠と、何の石碑か分からないが大きな碑が建っており、土塁址が僅かに残っています。本郭の先には2条の堀切が残存してますが、眺めが良くないので早々に退却。
埴原田城址、本郭跡 埴原田城址、堀切跡
 R152で鬼場大橋の信号付近で、山側の急峻な法面に立派な階段で登って行く道を見つけ、鉄馬を停めます。この橋のタモトの山が鬼場城である情報を得ていたのです。遊歩道もあるということだったのですが、この急な階段は間違っているかも、と思いながらも進むと2、3分で南アルプス・富士山・八ヶ岳連峰が眺められる展望台に到着。大門街道が下に見えます。あいにく富士山は見えませんでしたが、絶景を満喫し、さらに2、3分登って送電線の鉄塔基部に。どうやら郭跡とみたが、確信持てず。この上が本郭で、四囲を土塁が囲っていて虎口も僅かに残っています。本郭内の立派な木碑だが、根本が腐って倒れているのを立て直して記念写真をパチリ。本郭先には3条の堀切があり、その内の2条の堀切の先は竪堀になっているのが確認できます。井戸跡があるらしいのだが、見つからず下山。
鬼場城址、本郭跡の土塁 鬼場城址、本郭横の堀切跡
鬼場城址、本郭の虎口跡 鬼場城址、本郭跡の土塁
 R152に戻り、「茅野警察署前」の標識の北側をウロウロします。山懐の谷間に、福寿苑という小さな墓地があり、この沢沿いに立派な道がありドンドン登って行き、2、3分で沢から右側の山へ入る道があるので、これを登ると2、3分で齢松山城。遺構は僅かにしか残っていませんが、それでも土塁・堀切・腰郭が残ってます。ここへは、「本町西」地区の齢松山・福寿院の丁度真北350m先にある墓地の、右側の尾根の先のピークで、2.5万分の一地図があれば、すぐに分かると思います。下山して、次のターゲットに向おうと鉄馬の馬首を右に45°ほど曲げた時、突然瞬間的に大きなホーン音。「あっれっ...?」、おかしいなぁ、気のせいかも。と思いながら再び右にハンドルを切ると、ある角度付近で瞬間的にホーンが響き渡ります。どうやら気のせいではない。これは困った、どこかの配線コードの接触のようだ。コードを引いたり・曲げたり、イジくっても再現しないが、ハンドルを切るとほぼ確実に発生する。大きく切らない限り鳴らないが、狭い街角では右折する度に、ほぼ発生。通行中の皆さんに迷惑がかかるが、原因が分からない限り対処できない。それにしてもBMWというメーカーの電装系の設計というのはプアーこの上ない昔々、本当に航空機を作っていたのかしらん、落ちたらどうするのか。まぁ、文句を言っても直らなければねー、イザとなればホーンへの配線コネクタを外すことにして、後日調査することで次の攻城へ。
齢松山城址、本郭跡の土塁 齢松山城址、本郭横の堀切跡
  茅野市中心部に行き、県道188号線で粟沢橋を渡り粟沢地区へ。県道沿いに古刹という感じの粟沢観音があり、登り口に案内板が立ってます。粟沢城址の記述もあるので、どうやらこの近くに粟沢城があるらしい。で、県道から今泉地区に入る標識の左側の丘肌に、「粟沢城址」の大きな看板が立っていて、難なく現着。でも、石碑はあるものの遺構はなさそう。看板があるところは駐車場のような広場で、この周りに土塁跡のようなものがあるだけ。
粟沢城址、土塁跡? 粟沢城址、石碑前にて
  さぁてとぉ、マダマダ日は高いが今日も長駆し過ぎている、ソロソロ帰ろうか。ほぼ往きと同じ道を戻り、R20・中央高速・R412・長後街道とで帰館。フーッ、疲れたワイ。最近、長駆し過ぎているせいか、はたまた年齢か、腕・腰・首が疲れて痛い。でも走行距離450Kmの内、高速多用(往復で100Kmほど)で早く帰陣したので、夕飯前に熱い風呂にジックリ入り、その後の超うまいビール(うそ、発泡酒)で咽喉を潤したのでした、「クーッ、ぅーんめい」。
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