■   新井城  ■
■期日 H17年2月11日(金・祝) 【神奈川県】三浦市・和田城・三崎城・新井城
             横須賀市・佐原城・怒田城・浦賀城・芦名城、葉山町・鐙摺城
■ルート 戸塚自宅〜R1・環2・鎌倉街道・環3・R16〜横須賀C〜P26他〜浦賀
        〜R134他〜三浦C〜R134他〜鎌倉C〜P304他〜自宅
■コメント
  最近お疲れ気味、という訳で早朝の出っ発はアキラめて、会社へ行く時と同じ時間に起床。当然、攻城先は近場に限定されてしまう(というか、こういう時はゆっくり休んでいれば良いのにネ、何か起きるゾ、きっと)。で、その内に安房を攻めるためにも、久里浜・金谷のフェリーを利用したいというアイデアが湧き、この下見も兼ねて三浦半島の攻城を考えるのでした。横浜・横須賀道路(通称、ヨコヨコ)は距離の割りに高い高速道というコトで有名である。当然下道を使うことになるが、自宅からどの位でフェリー乗り場まで時間が要するか、知っておく必要があるのである。8時前に出っ発、環2と鎌倉街道などを使い、途中からR16に。このR16は25年ほど前に通勤で毎日使用していた道である、どのように変わっているか、興味津々である。結果は25年というのは、どうやら短かったようで、大して変わっていなかった感じ。横須賀からは衣笠方向に入り、衣笠城址そばから久里浜へ行く県道を南下。するとすぐに大矢部地区の満昌寺が左側に出現するので、手綱を引いて止まります。この寺には三浦一族の墓などがある、当然、怒田(ぬまた)城が近くにあるだろうという魂胆で境内に。でも境内にも周りにも、何も無し。オカシイ、城がある筈なのに。境内で何かの作業をしている職人のような人に尋ねると、怒田城はココにはない、久里浜近くの若宮台地区の頂上近くにある、等々と教えて頂く。ふ〜む、お主ナカナカやるなぁ。歴史に興味が無かったら、マイナーな城をココまで知っている筈がない。でも、怒田城の前に、佐原城を攻めよう。ヨコヨコの佐原インターを出て目の前の丘が城、簡単に攻められそう。でも、インター出口から見える目の前の丘がそうである事が分かっても、なかなか頂上に近付けない。ウロウロしている内に、クリオ湘南久里浜マンションの入口に着きました。どうやらこの上がそうらしい。マンションの駐車場のさらに奥へ行くと、au社の携帯用の電波鉄塔が建っており、近くに石碑と案内板が立ってます。周りはそれらしい雰囲気の畑ですが、どうやら遺構ではなさそう。道の無い鉄塔の上の丘頂へも無理して登ってみましたが何も無し、残念。
佐原城址、石碑前にて 佐原城址、丘上よりの眺め
 さぁてとぉ、いよいよ怒田城。久里浜まで行き、ここから若宮台地区へ。吉井貝塚遺跡と聞けば、誰でも簡単に場所を教えてくれる筈です。この遺跡の上に城を築いたらしい。簡単に現着し、ウロウロ開始。どうやら空堀跡があるが、土で埋まってしまい地面の下らしい(案内板)。目に付くのは土塁くらいです。金網越しですが、久里浜近辺の眺めは ◎ です。
怒田城址、土塁跡 怒田城址、案内板
 ここから、県道209号線で浦賀地区に移動。海に面した所からは、浦賀湾を隔てた向こう側に浦賀城がある明神山が見えます。急い向こう側に移動し、先ずは麓の東林寺に。ココに何かしらのヒントがあるだろう。境内に鉄馬を停めようとした時に悲しい惨劇が。最初は何がなんだか分からなかったのだが、とにかく鉄馬が横倒しになったのである。軽い愛馬なので、乗馬姿勢ではマズ倒れない筈が、ハンドルロックをし、乗り手も降りようと体重を移していたため、愛馬が横になろうとしているのを支えられない。何と、サイドスタンドを立てていなかったのダー。そりゃぁ、倒れるワナー。超お間抜けで、ガックリ。急いで鉄馬を抱き起こし、怪我の状態を確認すると、僅かの怪我で済んでいる。でも小さいがキズが付いちゃっター。大事にしていた愛馬なのに、ショックはメチャ大きい。それでもエンジンガードのお陰で、目立つ所にはキズはなし、付けてて良かったエンジン・ガード。気を取り直して仕切り直し、先ずは境内をウロロウロ。でも、特に何も無さそう。さらに先の東叶神社の社前に来ると、神社の案内板があり、どうやら浦賀城のことも書いてある。神社左側に階段があり、モノノ2、3分で頂上に到着。土塁跡とオボしきものが残存していますが、それ以外は無し。でもBUT、ここからの眺めは三重丸。
浦賀城址のある明神山 浦賀城址、本郭の土塁跡
浦賀城址、本郭跡の案内板
 続いて三浦市に入り、市役所へ。ここら辺りは、三崎城の城域。至るところに土塁址があり、ナカナカの縄張りと見た。三崎中学校の校庭脇に石碑・案内板と土塁址があります。で、この学校前の体育館が本丸跡らしい。ここも見晴らしの良い場所が多く、海に面した城であることが再認識できます。三崎といえばマグロ、マグロといえば三崎なので、本当はここいらでマグロの昼飯でも、というところであるが、鉄馬を倒した傷心の身では食欲わかず(ウソ、単に金欠病)、次に。
三崎城址、中学横の土塁跡 三崎城址、石碑前にて
 次は油壺、京急のマリンパークがある所です。鉄馬料の200円也を払って駒を停め、いざ進撃。付近の案内図にも、シッカリ新井城が記されており、難なく現着。の筈が、これが至って難しいと思われる。関係者以外立ち入り禁止区域ばかりなのである。こちとらぁ、そんなことツユ知らずに、四輪駐車場から、それとオボしき場所へ直にヤブをカキ分けて侵入。いきなりの大きな堀底道に遭遇、当然感嘆符が!! 。堀をヨジ登っていくと幾つもの郭があり、それらの囲りは土塁跡が残存している。でも、残念なのは、その郭内には民家やら施設が建っていて、立ち入り禁止なのである。ココらあたりでどうやら立入り禁止区域だと認識した次第(オイオイ)。それにしても、「この文化遺跡はお前らのモノではないだろう」と文句を言えないHYDは、コソコソとデジカメで写真を撮るのでした。海側には、油壺の語源の説明板があり、オドロ・オドロした内容が書かれている。例の三浦同寸軍が全滅した時に、人の血と脂で海が油を流したようになったコトがイワレであるらしい。ふーむ、なるほど。それにしても3年間もよく城を守れた理由が分かったような気がしてきた。とにかく防御し易い四囲の海に、この防御施設である。感心するのは遺構だけでなく、この湾の青・緑色の海、富士山まで見通せる景色も。民家や施設さえ無かったら、完璧に ◎ なんだがナー、残念。
新井城址、堀底道 新井城址、堀底道
新井城址、石碑前にて 新井城址よりの油壷湾
 R134を今度は北上し、「和田」の信号を西に入ってすぐに八雲神社があり、和田義盛の石碑と後側はそれらしい雰囲気の丘。案内板にも、この辺りに住んでいたなどと書かれている。当然この神社付近が居館か城だったんだろうと早トチリ。早速上へ登ろうと、鉄馬を上部に走らせると、真っ黒に日焼けした老人とバッタリ遭遇。海に関係した職業に就いていたんだろうか、などと考えながら「ここら辺りが、和田城だったんですか?」と質問。すると、「何をバカなコトを、和田城はずーっと先」。行き方などをイロイロ教えていただく、感謝感謝。で、「県立三浦ふれあいの広場」の入口近くに和田城の石碑と案内板を発見、どうやら遺構は無いらしい。確かに、周りにはそれらしいモノは見当たらず。海に近いから、台風や何かの自然災害で壊されたんだろうと解釈。
和田義盛の石碑 和田城址、石碑前にて
 さらにR134を北上すると、横須賀・芦名地区に。ここは有名な芦名氏の出身地だそうな。大楠小学校辺りが、芦名氏の居館があったらしいが今は何も無し。学校の向かいの丘陵上に郭があり、学校付近は居館だったいう話もあり、丘へ登ろうとしたが保養所やマンションで入れず、残念。
芦名城址、遺構はなし
 次いで国道の北上を続け、葉山から旧道を走ると、有名な日影茶屋の店に到着する。サザンの歌にも出てくるのだが、まだ一回も入ったことは無い。多分、庶民には手が届かない値段で、どうせワシの舌には合わないはず、という先入観(ウソップ童話の狼とブドウみたい)があり、当然敬遠。この店の前(海側)に急峻な丘があり、階段で登ることが出来るのだが、ここが旗立山で鐙摺城の一部である。どうやら本当の城は、店の後ろの鐙摺山の頂らしいが、さすがに高い・遠いので今回はパス。海側の遺構も、土塁跡が残っており、何よりココからの景色が抜群なので、登って損は無い。伊東祐親の首塚もあるでヨ。
鐙摺城址、土塁跡 鐙摺城址
 この後、近くの長柄地区に入り、長柄氏の居館跡を探したのだが、ウロウロしても見つからず。人に聞いても「?」の人ばかりだったので、また今度ネ。さらに・さらに続いて、逗子市小坪地区の住吉城を攻めますが、小坪トンネルの上という情報だけでは、どうにも・こうにもNG。日没サスペンデッドにもなり、ここもマタまた今度ネ。ここから鎌倉・大船を経由して戸塚の自宅に。暗くなってから帰ったのだが、家まで近かったので6時前には無事に帰陣。よくよく考えたら、今日はタチゴケの傷心で昼飯を食さなかったワイ。ドウリで腹が減った訳だ。この空きっ腹に、大酒を流し込んで、タチゴケの傷心を癒すでも次の日、具合が悪く大変だった)のであった。本日135Kmのプチ野駆けであったが、攻城数は8つ、お疲れさん。
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